[PR]三井住友海上きらめき生命:医療保険のご案内と資料請求はこちらから


HISTORY OF MALAYSIA
マレーシア独立の歴史



1957--- 独立40周年 ----1997



イギリス植民地時代からマラヤ連邦独立まで


 イギリスのマラヤ半島における植民地支配は、1786年、イギリス東インド会社がケダ州のスルタンからペナン島を割譲されたことに始まった。イギリスは、植民地開発に際し、アマゾンから天然ゴムの苗木をシンガポールに送り植林、ゴム園の開発とスズ鉱山の発掘に取り組んだ。その労働力確保のために、インド・中国から大量に労働者が送り込まれた。現在の複合民族社会の形成の始まりである。
 1942年から、1945年の日本の敗戦まで、マラヤ、シンガポールは一時日本軍政の配下におかれたが、1945年9月、イギリス軍政が復活した。戦後のイギリス軍政にマレー人の反発が高まり、1946年にダト・オンを初代総裁としたマレー人国民組織(UMNO)が発足。1948年にはイギリスがマレー人の地位を認めたマラヤ連邦が発足した。
マラッカ・ムルデカ・スタジアムでの独立宣言
 トゥンク・アブドゥル・ラーマン・プトラは、1903年、ケダ州アロースターのスルタンの一族に生まれた。ラーマンはイギリスで、歴史・法律を学び、1931年に帰国、ケダ州の役人として働き始める。その後、クリム地区の副郡長、パダン・テラプ地区の郡長、スンガイ・パタニの郡長を歴任するが、再びイギリスへ渡航。1949年、イギリスで弁護士の資格を取ったあた後、帰国する。
 1951年、郡長時代の功績が認められ、UMNOの第二代総裁選挙に当選、マラヤの独立を一日も早く達成する事を決意し、役人をやめて、政治に専念する。ラーマンは、そのオープンで誠実な人柄、豊富な経験、数々の功績によって多くの人々に支持され、連邦立法評議会のメンバーにも選ばれる。1952年、マラヤ連邦下で初のクアラルンプール市議会議員選挙が行われ、タン・チェンロック率いる中国人擁護のための馬華公会(MCA)とUMNOが連合で勝利を収める。選挙後、マラヤ・インド人会議(MIC)を加えてマラヤ連合党を結成した。
 1956年、マラヤ連合党代表とスルタン代表10人の「独立交渉団」を結成し、ロンドンで約3週間のイギリス政府との交渉後、翌年の8月31日にマラヤ連邦の独立が決定した。
 1957年8月31日、新設されたマラッカ・ムルデカ・スタジアムに集まった30,000人の聴衆の中、ラーマンを初代首相に迎え、独立セレモニーが行われた。ラーマンは「私たちは今、この国の運命を手中に握ったのだ」と国民に民主的独立国家マラヤの献身を呼びかけた。第二次世界大戦後、数々の新しい国が生まれたが、その中でもマラヤは流血を見ずに独立を達成した数少ない国のひとつであった。
(ラーマンとマハティール・ブミプトラの挑戦/岩波書店)

【トップへ戻る】


マラヤ連邦独立から今日まで

1958
  • 初の中等教育が55カ所、880人の生徒で開始。始めてマレー語が教育に使われた。
  • 国立美術館が開設
  • 連邦銀行法成立
1959
  • バンクネガラ(マレーシア中央銀行)開業
  • 初のアジアユースフットボール大会をKLで開催
  • マラヤとシンガポールで初サミット開催
  • 離婚法の改正。マレー人の外国人との結婚禁止
  • 独立後初の連邦下院議員選挙が行われ、マラヤ連合党が74議席を獲得して勝利
1960
  • 国内治安法成立。非常事態宣言が解除
  • ハイビスカスが国花となる
  • 初の国連平和維持軍613人をコンゴに送る。
1961
  • ラーマン首相がマレーシア構想を発表
1962
  • 室内競技場・スタジアム・ネガラが開設
  • タン・イスマル・アリがバンク・ネガラ初のマレーシア人総裁となる
1963
  • アジア初の自転車競技大会を開催
  • マレーシア連邦(マラヤ・シンガポール・サバ・サラワク)成立
  • インドネシア・フィリピンと国交断絶
  • ラジオ放送がマレーシア全土に普及
  • 連邦庁を開設。国会議事堂開設。
  • テレビ・マレーシアを開設。のちのRTM
1964
  • 初の中東・アジア・ムスリム大会開催。25カ国参加
  • 労働保障保険制度を導入
1965
  • シンガポールがマレーシアから分離
  • ラーマン首相5カ年構想を発表
1966
  • フィリピンと国交回復
1967
  • マレー語が国語になる国語法成立
  • 日本との「血債問題」解決
  • インドネシアと国交回復。ASEAN結成
1968
  • ペナンで暴動
1969
  • 社会保障制度成立
  • 人種対立事件。非常事態宣言
1970
  • 非常事態宣言解除。ラーマン首相退陣。ラザク第2代首相に就任。新経済政策(ブミプトラ政策)打ち出す。
1971
  • 大洪水で53人、1億リンギットの被害
  • 国立図書開館
  • 第二次マレーシア計画発表
1972
  • クアラルンプール市政施行
  • マレーシア航空発足
1974
  • 「ペトロナス」発足、石油・ガスをコントロール
1975
  • 日本の「昭和丸」がマレー半島付近で、30万トンのオイル流出事故
  • 日本赤軍が人質53人と80時間たてこもる。
1976
  • ラザク第二代首相死去。フセイン第三代首相就任。
  • 第三次マレーシア計画発表
1977
  • KLで第二回ASEAN首脳会議開催
  • マニラで「福田ドクトリン」発表
  • マレーシア航空・墜落、99人死亡
1978
  • カラーテレビ放送開始
1980
  • アロースター、ケダで1万5千人の農民暴動
  • アフガニスタンと国交断絶、モスクワ五輪辞退
1981
  • マハティール第4代首相に就任。ルック・イースト政策、第4次マレーシア計画発表。
1982
  • ケランタン・ペラ間を結ぶ、東西高速道路開通
1983
  • 最高裁判所開設
  • マハティール首相、日本公式訪問。プロトン・サガの合弁
  • 香港のブミプトラ・マレーシア・ファイナンスのスキャンダル発覚
1984
  • 初の民間テレビ局「TV3」開設
1986
  • 第5次マレーシア計画発表
1987
  • ランカウイ島が免税島になる
1988
  • UMNOが「新UMNO」と「46年精神党」に分裂
1989
  • マラヤ共産党の武力闘争終結
  • 国連安全保障理事会のメンバーとなる
  • APEC発足
1990
  • フセイン元首相、ラーマン初代首相、死去
1991
  • 「WAWASAN2020」、第6次マレーシア計画発表
  • 日本の天皇・皇后がマレーシア公式訪問
1992
  • コモンウェルス・ゲーム98のKL開催決定
1993
  • KLで高級コンドミニアム「ハイランド・タワー」崩壊
1994
  • 第1回ASEAN地域フォーラム開催
1996
  • マレーシア中央銀行から2リンギット札が発行される
  • 第7次マレーシア計画発表
  • マルチメディア・スーパー・コリドールプロジェクト(MSC)発表
  • LRT”Star”営業開始

【トップへ戻る】

5月13日事件(人種対立事件)


 戦時中、日本軍政下でマレー人は親日であり、華人は抗日であった。この時点で、双方の対立はすでに始まっていたが、独立後、マラヤの商工業は華人と欧米人に自由に任され、華人が富を築いていくのに対し、マレー人農民の生活水準は極めて低かった。また、華人は、国語、国教、マレー人の特権などマレー人優先政策を続ける政府に反発していた。ラーマン首相の政策は、マレー人の経済的不利と、華人の民族的不平等を生みだし、結果的には互いが不満をもつことになった。
 1969年5月10日に連邦下院議員の選挙が行われた。選挙前の5月4日にはマラヤ労働党を支持する華人青年がクアラルンプールで選挙ボイコット運動を行った際に、その一人が警官に抵抗して殺害された。5月9日のこの青年の争議には5000人もの華人が詰めかけ、ラーマン首相を批判、マレー人と華人との緊張が膨れ上がった。選挙では、マラヤ労働党は全体で89議席から66議席へと減り、野党が計37議席を勝ち取り、勢いづいた。
 5月13日、民政運動党のタン・チークン書記長がクアラルンプールで「勝利の行進」を決行、マレー人の居住区カンポン・バルを通過した際に「マレー人は死んだ」などと叫んだらしい。このため、セランゴール州首相ハルンの自宅に集まったUMNO青年部のマレー人らが対抗してUMNOの勝利行進を行い、同夜両者が衝突、流血事件に発展した。この事件で、支社196人、うち華人143人、マレー人25人、インド人13人、その他15人。負傷者は439人、うち華人270人、マレー人127人、インド人26人、その他16人となっている。よく14日ラーマン首相は非常事態宣言を宣言し、議会を停止した。ラーマン首相は、緊張状態が治まるまで、首相の地位にとどまる決意をしたが、次々とラーマンの退陣を要求するデモが全国各地で、行われるようになった。副首相のラザクは同年10月9日「5月13日の悲劇」と題した、レポートを出版。ラザクは、その中で、率直かつシンプルな表現で、事件を過大情緒的に扱わず、”このレポートは、あの事件に関するもはや隠しておけない事実を皆に知ってもらうためのものである”と言った。
 翌1970年9月21日、ラーマン首相は退陣、二人三脚で政権を支えてきたラザク副首相に政権を譲った。ラーマンの13年の首相活動が終わった。

【トップへ戻る】

KLCCは、新しい時代のマレーシアの象徴

21世紀に向けて〜WAWASAN2020


 初代ラーマン、ラザク、フセインに次いで、1981年に第4代首相に就任したマハティール・ビン・モハマドは、同年「ルック・イースト政策」を発表。この政策は、個人の権利を優先させる西欧文化よりも、日本や韓国のように集団の利益を優先する国から労働哲学を学ぶべきだ、という考えに基づいている。それは、マレーシアが日本化したり韓国化することではなく、イギリスをはじめとする西欧の経済的・文化的支配から脱出することである。
 しかし、1983年以降、憲法改正問題や、スキャンダルを含んだブミプトラ銀行不良債権問題等が持ち上がり、1985年頃にはマレーシアは大規模な経済不振に陥った。民間投資の縮小や、地価の暴落により、銀行は多額の不良債権を抱え、財産の返済を求める民衆の列と、職を失った労働者たちが街にあふれた。
 この経済危機を乗り切ったマハティールは、1990年に「EAEG構想」(アジア経済グルーピング)を発表した。これは、アジア太平洋諸国は西側の経済ブロック化(EUやNAFTA)に対抗して独自の通称ブロック化を検討すべきであるという考えで、後に「EAEC構想」(東アジア経済協議体)と呼ばれる。結局、アメリカの反対によって日本の参加が見送られたり、ASEAN、APEC等と絡んでこの構想は、まだ実現していない。
 1992年、マハティール首相は「WAWASAN2020」を発表し、21世紀に向けてのマレーシアのビジョンを打ち立てた。この中でマハティール首相は、2020年までにマレーシアを先進国レベルに高めることを国民に呼びかけ、9つの課題を掲示した。
  1. 統一したマレーシア民族を作ること。
  2. 心理的に解放され、安定し、発達した社会づくり。
  3. 成熟し、合意を基礎とするコミュニティに根ざす民主主義。
  4. 道徳的・倫理的社会づくり。
  5. 多様な民族からなるマレーシアの人々がそれぞれの生活慣習、宗教、文化を守りながら、一つの国民としての帰属意識を持つこと。
  6. 科学的・進歩的な社会づくり。
  7. 強力な家族制度を軸とする思いやりのある社会と文化をつくること。
  8. 経済的に公正な社会づくり。
  9. 競争的でダイナミックな強靱な経済をつくること。
 今年、マレーシアはやっと独立40周年を迎えたばかり。まだ、若く、活気あるマレーシアの存続を皆で祝い、さらなる発展に期待しよう。
(日馬プレス 31/08/97)


【トップへ戻る】

Please send your comment to malaysia@susumu.com


[PR]ベビー用品はたまひよ♪:子育てが楽しくなる便利アイテムいっぱい